記事:コンピュータ・テクノロジー・人生

Sunのエンジニアに対するインタビュー記事の要約とコメント。個別の技術に焦点をあてるのではなく、「人間」が関与するものとしての技術が論じられています。

要約



Masood Mortazaviへのインタビュー, Part 1:コンピュータ、テクノロジー、そして人生に関する省察
Oracle Technology Network for Java Developers | Oracle Technology Network | Oracle


導入

Bill Joy人工知能が人間の知性を超えると考えている一方で、Mortazaviが師事したHubert Dreyfusは人工知能の限界について論じていることに関する見解を問われて:
テクノロジーが人間に対して与える脅威についてはBill Joyとは違う捉え方をしている。
人間の知性を超える人工知能について:

As technologists, we have failed in the past and will fail in the future to create something that is computational and robotic and enough like ourselves to pose an existential threat to us.


技術者という観点から見ると、私たちがこれまでも、そしてこれからもできないだろうと思われるものがあります。それは私たちに実存的な脅威を与えるほどに私たちに似たコンピュータやロボットのようなものを作るということです。

それでも危険がない訳ではなくて:

If there's an existential danger, it probably issues much more directly from ourselves than from the technology we have produced. The conduct of our personal, social, and political lives can pose a far more serious existential danger to us than can the technology we create.


実存的な危険があるとするならば、それは私たちが生み出したテクノロジーからではなく、私たち自身から生じるものだと思います。私たちが個人的、社会的、そして政治的な生活においてどう振る舞うのかということが、テクノロジーが与えるよりも遥かに深刻な実存的危険をもたらすのです。

コンピュータは何を私たちから奪ったのか

コンピュータは個々人の人間関係を破壊してしまう危険がある。人間関係とはつまり、他者に対する、身体的な参与であり、相互関係であり、生活であり、経験である。
危険というのは例えば、

  • e-mailやチャットによって、手書きの手紙を書くということをしなくなってしまう。
  • ソーシャル・ネットワーキングによって、人間関係における人格的、身体的な態度が薄れてしまう。
  • ネット検索によってすべてが分かると思ってしまう。
仮想現実を通じて身体的な接触を失ってしまうということ

仮想現実によって、実際に人と触れ合ったり、笑顔を交わし合ったりすることによる感情的なつながりを失いかけているということかと問われて:
「まさにその通り。」

  • 触れるということは、自らが生きる世界を認識する上でも重要な役割を果たす。
  • 私たちの身体には、実際の世界において行動することでしか開くことができない領域がある。(分かりやすい例が「ひとめぼれ」)
  • 実際に子供の運動能力が低下しているという人もいる。

そしてソフトウェア・エンジニアに関して:

Software engineers, by being purely mental workers, definitely need it more than most other workers. Software engineering, at its best, involves solving highly constrained problems, which can be enormously draining. Even if the person coding is unaware of feeling drained, it's still happening. We always need "to sharpen the saw," as my daughter often likes to remind me. For software engineers, sharpening the saw means getting out there, riding the bicycle, smelling the flowers, looking at the distant horizon, and in short, doing something else.


ソフトウェア・エンジニアは純粋にメンタルな労働を行うので、他の仕事をする人以上に、実際に外に出て、世界を見るということをする必要があります。ソフトウェア・エンジニアリングにはどうしてもきわめて制限された問題を解くということが含まれているのであり、そのことが多大な乾きをもたらすのです。コーディングしている時に乾きを感じていなかったとしても、それは実際に起こっています。私たちには常に「のこぎりを研ぐこと」が必要です。これは私の娘が好んで思い出させてくれることなのですが。ソフトウェア・エンジニアにとって「のこぎりを研ぐこと」というのは、外に出て、自転車に乗り、花の香りを楽しみ、遥かな地平線を眺めること、要するに何か違ったことをすることなのです。

言葉を真剣にとらえる

他のブログ記事では、Dreyfusの本を引いて、インターネットによって言葉を真剣にとらえなくなってしまい、適当な言説が散乱していると書いていることに関して聞かれ:

  • グーグルなどの検索エンジンがどんなに発達してもそういうものには行き当たる。
  • 実際に図書館を歩いている方が遥かに有益なものに出会える。
  • 電子化された書籍であっても、実際の本がもたらす身体的な経験とは異なる。
  • 例外的にWikipediaのように有益なものはあるが。
オープンソースムーブメントと創造性

Jaron LanierがOSSムーブメントがそれほど創造的とは思えないと考えていることに触れた上で意見を求められて:

  • 個人の自立を促すことができない程脆弱なある種のコミュニティがカルト化することの問題点については同意。
  • 経済においてもおなじようなことは見られる。(評論家、起業家)

しかし、そういうことばかりではなくて:

I think, with the open-source communities, when we have good channels of communication to conduct a real dialog, it is highly unlikely that cults of personalities will arise. Transparent communications, where information is readily available and dialog is possible, lead to open-source development environments that are like a bazaar. When these channels are weak and inoperative, information flow and dialog fail, and we have coordination by authorities that soon develop a cult around them -- what, using Eric Raymond's words, we may call the cathedral.


思うに、オープンソース・コミュニティに関しては、本当の意味で対話するためのコミュニケーションのチャンネルがあれば、個人崇拝のカルトとは全く異なるものが生まれるのです。外から見えるコミュニケーション、情報が常に得られ、対話が可能なコミュニケーションが、オープンソースの開発環境をバザーのように優れたものにします。こういったチャンネルが弱かったり、機能しなかったりすると、情報の流れと対話が失敗し、権威による調整が必要になって、すぐにそのまわりにカルトが形成されるのです。これはエリック・レイモンドの言葉を借りれば、「大聖堂("chathedral")」と呼べるかもしれません。

大切なのは:

  • オープンソースが使われるのはほとんどの場合「使えるから」
  • クローズでつくるよりもオープンで作る方が経済的なメリットがある。
  • 究極的には、オープンソースはギブ・アンド・テイク
バグとひらめき

バグが重要な実存的問いに導くと考えている点について聞かれて:
バグとバグフィックスは世界の見方を変えてくれる:

So working on bugs is the best way to learn about complex systems of code as well as simple ones. In fact, if we think of missing features as bugs in disguise, we can learn about programs as we fix them.


バグに関する作業をすることが、複雑なシステムについて学ぶ上で最も良い方法です。これはシンプルなものについても動揺ですが。見落としていた特徴をバグという形で考えるならば、それを直す過程でプログラムについて学ぶことができるのです。

新聞を賞賛して

印刷された新聞を賞賛していることに関して聞かれて:
新聞は後に残るし、持ち運ぶこともできる。折り畳んでも読めるようにユーザインターフェイスも工夫されている。


最後に:

People's relationship to technology needs to change. We need to view technology as one of many tools at our disposal to accomplish modest but meaningful goals. Fearing it or worshiping it will get us nowhere.


テクノロジーに対する人々の関係は変わっていく必要があります。控えめな、でも意味のある目的を達成するためのツールの一つとして、テクノロジーのことを見る必要があります。テクノロジーを恐れても、崇拝しても、そこからは何も生まれません。

コメント

今回の記事に関しては「そんな考え方は初めて知ったよ!」という内容のものではなかったと感じています*1。本来であれば純粋に論理的なものであるべき「思考」に対して「身体性」というものが少なからず影響を与える、ということは「考える」ということについて真剣に向き合っている人ほど直感的に知っていることなのではないでしょうか。むしろここで重要だと思われるのは、こういった内容の記事が、他ならぬSunのサイトに掲載されているということです。Java本家が「純粋なテクノロジー」以外の、そこに関与する「人間」のあり方について真剣に考えているということは、仕事をする上で「人間」という部分を捨てきれない私たちにとってはある種の希望と言えるのではないでしょうか。


考えてみれば、アジャイルの方法論も成果物よりはそこに関わる「人」に目を向けた方法論でした。人間の持つ「生々しさ」を受け入れ、そこに真剣に向き合うことが、結局は一番大切なことなんだと思います。


最後に、要約にあたって落としている内容もだいぶあります。興味を持たれた方はぜひ本文をご覧ください。

*1:ただ、「折りたたんでも読める新聞がUIとして優れている」という発想は新鮮でした。